2019.8.12
新旧お宝アルバム #153
『The Broken Instrument』Victory (Roc Nation, 2018)
いよいよお盆の週に入り8月も半ば。3連休に休暇をくっつけてゆっくりと実家や旅先でくつろいでおられる方も多いのでは。暑さは相変わらずですが、朝夕のちょっとしたところに少しずつ秋の気配も感じられるここ数日、今週は台風の来襲も予想されてますが、体調と天気には気を付けて、暑い夏もう少しですので、いい音楽で乗り切りたいものです。
さて今週の「新旧お宝アルバム!」はそのR&B、ジャズ、ゴスペル、フォークといった様々な音楽の要素を見事に自らの作品に練り上げて昨年メジャーデビューした、デトロイト出身、ニュージャージー在住の女性R&Bシンガー、ヴィクトリーことヴィクトリー・ボイド嬢の素晴らしいアルバム『The Broken Instrument』(2018)をご紹介します。
ここ10~20年くらいのメインストリームR&Bって、1990年代が一大オーガニックR&Bの復興期だったのに比べて、どちらかというとエレクトロ系やダンス・ポップ系にヒップホップ・テイストを色濃く織り込んだタイプのアーティスト、楽曲がメインストリームやヒットチャートの上位を占め続けています。2000年代にエレクトロ・ヒップホップサイドからのそうしたアプローチでこのジャンルのメイン・アーティストとなったのがフランク・オーシャンを代表とするオッド・フューチャー系のアーティスト群ですし、つい最近初アルバムをリリースしたチャンス・ザ・ラッパーなどもそうしたアーティストの一人でしょう。同じエレクトロでもよりR&Bサイドからのアプローチでビッグになったカリードやケラーニ、ジェネ・アイコといったアーティストもシーンで活躍しています。
そしてそうしたコンテンポラリー・メインストリームR&Bは言わば「売れる音楽スタイル」として、アリアナ・グランデを筆頭とする非アフリカン・アメリカン系ポップ・アーティスト達にもスタイルとして取り入れられ、全体として一つの今のR&B系スタイルとしてジャンル確立されている感があります。
一方、1990年代のオーガニックR&Bの流れ(というか1970年代以来のR&Bの流れ)を脈々と継承しながらコンテンポラリーなスタイルで聴かせるアーティストも当然健在で、最近ではエラ・メイやH.E.R.、カニエ・ウェストのプロデュースによるテイアナ・テイラーなど、古くからのR&Bファンのハートをしっかり掴む楽曲や歌唱を聴かせるシンガー達も健在です。
今日ご紹介するヴィクトリーは、そうした伝統的なR&Bスタイルにジャズやゴスペル、フォークといったある意味ポップ・メインストリームとは一線を画するスタイルを見事に融合させた自作の楽曲を、自ら敬愛するというニーナ・シモンや70年代女性シンガーソングライター的アプローチで見事な世界観で聴かせてくれる、そんなシンガーです。
彼女の魅力はそんなメインストリームではないけど、黒人音楽やシンガーソングライターの楽曲が好きなオーディエンスに強くアピールする楽曲に加えて、彼女自身のボーカルにもあります。ややハスキーでスモーキーな感じのする彼女のボーカルは、そのジャジーでシンガーソングライター的なスタイルもあいまって、個人的にはトレイシー・チャップマンや、最近イギリスから出てきたジョージャ・スミスといった自らのボーカルスタイルの個性をしっかり持ったアーティスト達を想起させました。
もともとデトロイトで家族で幼少の頃から9人兄弟と父親ジョンと一緒に音楽活動をしていたヴィクトリーは、12歳の時にニュージャージー州のノース・バーゲンに移住。それからはハドソン川を挟んだマンハッタンはセントラル・パークやニューヨークの地下鉄でバスキング(ストリート・パフォーマンス)をしていたといいます。
彼女のブレイクのきっかけは、彼女達が定位置としていたセントラル・パークのベセスダの泉横でバスキングしていたところ、2016年第58回グラミー賞の新人賞部門ノミネートの白人R&Bシンガー、トリー・ケリーが通りかかって自然に一緒にパフォームした様子を観客の一人が撮影した動画がABC-TVの目に止まり、人気モーニング・ショー『The View』にトリーとボイド一家が出演したもの。その後ジェイZのバックで演奏する機会を得たのをきっかけに、ジェイZのレーベル、ロック・ネイションと契約に至って、このアルバムのリリースにこぎつけたヴィクトリー、この素晴らしいアルバムをリリースすることができたのです。
アルバム全曲を書いたヴィクトリー(一曲のみ共作)はほとんど全ての曲で自らアコギを弾きながら、バンドや曲によってはセンスよく配されたストリングスをバックに、ジャジーなグルーヴを醸し出しながら不思議な魅力のある歌声を聴かせてくれます。
冒頭のゆったりとした「Against The Wind」、イントロのアカペラコーラスから懐かしのグラウンド・ビートっぽいリズムをバックにヴィクトリーのちょっと舌足らずなボーカルがサビで一気に不思議な魅力を醸し出す「Open Your Eyes」、地味な曲調のマイナー調のメロディから次第にメジャーコードに展開していってじわじわとドラマティックな「Weatherman」や「Who I Am」、彼女が兄弟達とバスキングして盛り上がっていく雰囲気が何となく伝わってくる後半のSEがいい感じの「Jazz Festival」など、どの曲を取っても楽曲としての魅力と、バックの控えめな演奏やコーラスにストリングス、そしてやはり彼女の声の魅力に、聴いているうちにどんどん引き込まれていきます。
アルバム後半はヴィクトリーのアコギの弾き語りとピアノのコンビネーションがシンガーソングライター的アプローチを色濃くしている、このアルバムでは一番トレイシー・チャップマンを思わせる「Extraordinary」から珍しくエレピを配して楽しげなミディアムテンポのその名も「A Happy Song」、静かで内省的なピアノのバックが印象的な「First Night Together」といった曲に続いて、ボイド一家で構成されたグループ、インフィニティズ・ソングをバックに70年代R&Bとゴスペルを渾然一体とした感じの楽曲展開で静かなカタルシスを生みだす「Don’t You Ever」でアルバムはクライマックスに。
そしてアルバム最後は「The Broken Instrument」という楽曲の「i.」「ii.」「iii.」の3部作構成。ヴィクトリーのアコギをメインにして静かに盛り上がる「i.」とラテン・ジャズ風のパーカッションと重厚なストリングスをバックに映画のローリング・クレジット的ドラマティズムを湛えた「iii.」をつなぐ「ii.」では、ヴィクトリーが宣教師のように絶望的な現状をそこに見える一筋の光を、詩の朗読のように淡々と語っているのがとても印象的です。
「私は暗黒と栄光にまつわる伝説を聞いたことがある
夜が日を支配し死がまた一人の犠牲者を獲物とするこの話を知らぬものいない
強き者の力を絶望が奪い、囚われし者の自由を憎悪の斧が叩き潰す
こうした伝説は今でも現実にあるので驚くにはあたらない
しかし伝説によると栄光が打ち砕かれし者を守るために現れ
光が夜を打ち破り絶望は戦いに敗れ去るという
私は愛が悪の力をその恵みと徳で押し流してしまうという伝説も聞いた
しかしそれは伝説 それが真実かどうかを確かめたことはまだない
もしその奇跡が本物なら私はこのゴミ溜めから逃げ出したい
でも私が埋められているそのゴミ溜めの中には何の希望も見えない
それでも私は昔聞いたことがあるその伝説を忘れることができない
希望と未来の伝説 どこかに私を作り出した創造主が存在するという伝説
そしてその創造主は私を愛してくれているという伝説を」
かなり宗教的な余韻を残して終わるこのアルバムですが、高い楽曲クオリティとヴィクトリーの印象的で魅力的な歌唱パフォーマンスがこの「The Broken Instrument ii – I’ve Heard Legends」のメッセージをポジティヴなものにしているように思います。
聴き終わってみると、様々なメッセージに満ちた映画を見終わったような感じになるこのアルバム、でも聴き終わった後に不思議な高揚感と清々しさを感じさせてくれるこのアルバム、デビューアルバムとしては鮮烈な印象を与えることは間違いないところ。今のメインストリームR&Bスタイルとは全く違ったアプローチで一つのブラック・ミュージックの完成形を提示してみせているこのアルバムは一聴に値すると思います。ソウルミュージックファンも、そうでない方も一度是非。
<チャートデータ>
ビルボード誌全米R&Bアルバム・セールス・チャート 最高位24位(2018.6.30付)